とうふ先生のブログ

みんな不安の中で生きているというお話

今日は不登校について書いていこうと思います。

 

私の学校を振り返ると、周りに恵まれていたこともあり、学校に行きたくないと思うことはほとんどありませんでした。どっちかというと毎日学校に行くのは、寝ては起きるといったようなものと同じような感覚でした。今日は寝ません、今日はずっと目をつぶっておきますということがないように、学校に行かないという選択肢は自分の中ではなかったように思います。

 

 

なぜ、こんなことを書こうと思ったかというと、2020年の年末に不登校の子どもと会う機会があったので、そのことを踏まえて感じたことを書いていこうと思います。

 

 

そもそも不登校とは何なのか。

 

文部科学省は以下のように定めています。

 

不登校は長期欠席の理由のひとつで、「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」と定義されています。(文部科学省より)

 

 

病気や経済的理由以外で年間30日以上の欠席した子どもということになります。

 

 

 

今この年齢・立場になって考えると、学校にいかないという選択は大きな決断のように感じます。

だって、周りの友だちは学校にいってるし、学校にいくのは当たり前みたいな風潮があるなかで、私は学校に行けませんという決断ができるのってすごくないですか!?

 

 

お寿司屋さんに行って、大将に「コーンスープ1つください」と言っているようなものだと思います。その注文が堂々とできるのってすごくないですか!?(これ例えがあっているのかな・・・(笑))

 

 

 

不登校の子どもは、単純に敷かれているレールから外れるという決断をしているということですよね。

 

 

 

 

でも、それって本当に自分の意志なのでしょうか。

 

 

多くの場合は違うと思います。学校がいづらくなって、学校に行けなくなるのだと思います。自分の居場所が感じられなくなったのでしょう。

 

学校に行かないという選択をしたのではなく、学校に行かないという選択をさせられたに近いように感じます。

 

 

親戚の家に行って、長居したくないのと同じ感覚なのだと思います。変に気を遣うし、お互いずっとよそ行きの顔になってるし、いち早く帰りたいと心の中で思っているでしょう。

 

 

そんなことを不登校の子に会って思いました。

 

 

 

当たり前ですが、みんな自分の居場所を求めています。自分が自分でいていい場所を家でも、学校でも、社会でも。それは、すべての人がそうであり、自分を認めてくれる、承認してくれる人、場所が欲しいのだと思います。

 

 

多くの人は、どこか不安をもちながら生きていると思います。私もそうです。

その不安の糸がプチンと切れた時、自己防衛が働き、自分の意志とは裏腹に自分の身を守ろうとするのではないでしょうか。

その不安を受け止めてくれる拠り所があると素敵ですね。

 

 

 

今日から3学期がスタートをします。私が少し緊張しているように、何かしらの不安や緊張をもって学校に来る子どももいると思います。そんな子どもの感情を受け止められるように今日一日過ごしたいと思います。

 

 

とにかく今日は笑顔で過ごそう。笑顔のもつパワーははかりしれない。

 

 

もっと書きたかった時間切れで中途半端だが

おわり

 

 

書くことで余計に緊張感が増したが、今日も素敵な一日にしましょう!

いってらっしゃい!